記録 公開シンポジウム「ジェンダーの視点から考える兵役拒否」③

 

「韓国の兵役拒否運動 紹介及びその中でのフェミニストの役割」

戦争なき世界

チェ・ジョンミン

 

 韓国の兵役拒否の歴史は日本帝国主義による植民地時代の灯台社事件にさかのぼります。1939年から1941年まで、日本はエホバの証人信徒たちを治安維持法違反と不敬罪で処罰したのです。単純加担者たちを除き、彼らには平均して4年6カ月の実刑が宣告され、そのうち6人が獄死しました。西大門刑務所に収監された彼らは毎朝日本の天皇に対する崇拝を強要され、拒否した際は酷い拷問と刑罰を受けなければなりませんでした。この事件は朝鮮に限らず、日本、朝鮮、台湾など、東アジア全域で発生し、朝鮮だけで66人が逮捕されました(2019年に西大門刑務所歴史館で「灯台社事件80周年記念特別展示会」が開かれ、国史編纂委員会が所蔵している6000頁にもなる裁判関連記録、獄死者の事例、良心的兵役拒否者に加えられた拷問事例などが一般に公開されもしました。https://www.khan.co.kr/national/national-general/article/201909032219015)。

 当時拘束された人々のなかでオク・チジュンの家族の事例は注目に値します。オク・チジュン夫婦と兄であるオク・レジュン夫婦が1939年に日本の検挙によって投獄され、大韓民国政府の樹立後にはその子孫たちが同じ理由で収監されました。一家の合計の投獄期間は41年に達します。当時はまだ朝鮮半島に徴兵制が実施される前であり、徴兵年齢の男性だけでなく女性や老人なども逮捕されました。この灯台社事件は独立運動史資料集に含まれているように、独立運動の一部分として認められましたが、日本の支配からの解放後には、同じ行為が韓国政府の下で反国家犯罪とみなされる矛盾があるのです。

 

 

 

 兵役拒否者たちの信念は国家の境界を越えました。朝鮮戦争当時、彼らは南北朝鮮の双方で兵役を拒否しました。韓国では兵役法が施行された後、初めての徴兵対象になったパク・ジョンイルは国防軍と人民軍双方の徴集をいずれも拒否しました。朝鮮戦争勃発直後に人民軍がソウルを占領していた時期、1950年9月28日に韓国軍がソウルを奪還して以降、そしてその後数回にわたる韓国軍の徴集を拒否した彼は、結局3年の刑を言い渡され、ヨンチョン軍刑務所などで収監生活をしました。

 1961年5月16日のクーデターによって始まった朴正煕の一人独裁時代には兵役拒否者たちに対する弾圧が強化されました。兵役を終えた人々を政治の基盤にした朴正煕政権は1973年に「兵務行政刷新指針」を通して兵役不履行者たちに対する酷い弾圧を行いました。1974年には軍の入営率100%を達成するために強制入営を実施し、各地域の兵務庁はエホバの証人の代表たちと何度も懇談会を行い、信徒たちの入営を強要しました。

 1974年からは兵役拒否者に対する重複処罰が多様な形態で行われました。刑期を終えて出所するやいなや令状なしに強制入営させたり、収監中の兵役拒否者に軍事訓練を強要したりし、それを拒否した場合には量刑を追加するなど、法理に反した極端な国家暴力は頻繁にありました。最長期収監者であるチョン・チュングクは忠南大学医学部の教養課程に在学していた1969年に1度目の服役をしましたが、それ以降にも断続的な徴集と不法連行によって合わせて3度、7年10カ月にわたり服役しました。

 エホバの証人だけではない多様な宗教者も兵役を拒否しました。キリスト教信者のキム・ホンスルは1978年に訓練所で「兄弟同士で銃を狙い合うのは嫌だ」と拒否の意思を示しましたが、酷い殴打を受け、結局3年の刑が言い渡されました。仏教者のヒョリムは朴正煕の維新時代の末期に入隊後に修行者としての良心に反する軍事訓練を拒否して収監生活を送りました。

 1980年代後半からは戦闘警察〔兵役として配置される機動隊〕と現役軍人、将校たちの良心宣言が何度も出されました。特に1991年に出された戦闘警察のパク・ソクジンの良心宣言は注目に値します。盧泰愚政権の公安政局でデモ鎮圧を担当していた彼は、明知大学の学生であったカン・ギョンデがデモ鎮圧の警察の暴行によって死んだことを目撃し、戦闘警察解体を要求して服務を拒否しました。パク・ソクジンの良心宣言のときまでで、軍隊関連問題で良心宣言をした兵士は50人あまりに達しました。

 2001年、兵役拒否問題が社会的イシューとして登場する際には市民社会の諸団体が大きな役割を果たしました。2002年2月、平和人権連帯、人権運動サランパン〔客間という意味〕、民主社会のための弁護士の集いなど36の市民団体は「良心による兵役拒否権実現と代替服務制度改善のための連帯会議」を発足しました。連帯会議は法律支援と代替服務制度改善活動、兵役拒否者の相談、制度の意義を知らせる討論会など多様な活動を展開しました。このような努力によって半世紀以上隠蔽されてきた兵役拒否問題が新しい社会的イシューとして台頭したのです。

 2003年、イラク戦争と韓国軍のイラク派兵は兵役拒否運動の転換点になりました。兵役拒否者たちは集会、座り込み、ハンガーストライキなど多様な方法で反戦運動を展開しました。特に現役軍人で二等兵であったカン・チョルミンの派兵反対兵役拒否は新しい流れを作りました。当時、平和主義による兵役拒否者たちは派兵部隊撤収と民間平和奉仕団の派遣を主張し、その一員になると意思表明をしました。

 連帯会議の登場は運動の外縁を拡張して体系化する契機になりました。2003年5月には政治的兵役拒否者たちと後援者たちのネットワークである「戦争なき世界」が結成されました。この活動の成果として兵役拒否者たちの処遇が改善され、それまで3年であった刑が1年6カ月に短縮され、刑務所での宗教集会が許容されるなどの変化がありました。2004年には兵役拒否者の裁判第一審で初めて無罪判決が出ました。

 2007年、廬武鉉政権の代替服務制を導入するという約束は李明博政権への政権交代によって立ち消えになり、戦争なき世界は沈滞期に入りました。しかし2012年、MAP(Movement Action Plan)ワークショップを契機にして、組織は新しい転換点を迎えました。兵役拒否運動にのみ埋没するのではなく、済州島の海軍基地建設阻止、武器取引の監視などへ活動領域を拡張しました。特にバーレーンとトルコへの催涙弾輸出阻止は注目に値する成果でした。

 2016年からは司法府で肯定的な変化が始まりました。第一審の無罪判決は50件あまりに達しました。2018年、憲法裁判所は現行の兵役法の条項が憲法に不一致であると決定しました。これによって2019年末に現役兵の服務期間の2倍である3年6カ月の間、更生施設で合宿勤務をする代替服務制度が導入されました。たとえ運動陣営の期待には及ばなかったものであるとはいえ、これは重要な制度的前進でした。

 戦争なき世界の初期のアイデンティティを示す「兵役拒否者たちとその後援者たちの集い」という名称は表面的にはジェンダー中立的でしたが、韓国社会の文脈においては極めてジェンダー的な含意を持ちます。これは団体が創成期にジェンダー問題について深い理解が不足していたことを示します。兵役拒否運動においてジェンダー分析が欠如した場合、運動は英雄的男性性を象徴する兵役拒否者と彼らを支持する非男性活動家という二分法的な構図に縮小される危険があります。これは結果的に戦争に対する抵抗者というアイデンティティよりも、国家暴力の被害者と彼らを慰める後援者というステレオタイプ化したイメージを強化することになるのです。

 内部評価をする過程で明らかになったように、兵役拒否運動は意図せずに当事者ではない活動家たち、特に女性活動家たちを疎外させる傾向がありました。女性活動家たちの役割が兵役拒否者個人の苦しみを浮き彫りにするための助力者としてのみ映るという問題があったのです。このような評価をもとに、戦争なき世界は出所した兵役拒否者たちが平和的理由の収監者たちの支援を担うようにし、フェミニズムセミナーとワークショップをはじめるなどジェンダー意識を運動に統合しようとする多様な試みを展開しました。

 このような変化は運動の本質的な拡張へ繋がりました。兵役拒否運動が軍事主義に反対する運動でありながらも不服従の当事者が注目されるしかなかった特性を帯びているという認識のもとで、徴集対象者ではない多様な実践者を含んだ運動への転換が必要だったのです。これによって武器取引監視キャンペーンが運動の新しい軸になり、これは主に非男性活動家たちが主導するようになりました。

 兵役拒否運動もまた、女性兵役拒否者、完全拒否者など軍事主義に抵抗する多様な主体を包括する「戦争拒否者キャンペーン」に拡張しました。これは代替服務制度導入運動を超えて、選択的兵役拒否、軍隊内の菜食選択権、LGBTIである軍人などのイシューを拡大する契機になりました。さらにはピョンテク米軍基地拡張移転反対、済州島海軍基地反対、国旗に対する誓いと敬礼反対、軍国愛国教育反対などへと活動領域を広げています。

 ジェンダー観点の導入は単純な活動領域の拡張を超え、軍事主義に対するさらに根本的な批判を可能にしました。これは女性軍人募集拡大や環境にやさしい武器開発のような軍隊の表面的な変化を無批判的に受け入れない批判的な視角を作り出しました。結果的に、戦争なき世界は個別の兵役拒否者の人権問題を超え、軍事主義全般に対する構造的批判と対応を提示する運動へと発展することができたのです。

 

 

 

○松田: チェ先生、ご報告ありがとうございました。お二人の先生、興味深いご報告をありがとうございました。

さて、ご報告いただいた先生も、お聞きくださった皆さんも、少々お疲れではないかと思いますので、ここで、15分間の休憩とさせていただきます。休憩終了後に、質疑応答とパネルディスカッションを再開したいと思います。

 

④へつづく